10ちゃんねる

シュメール神話

 シュメールは、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明である。 

 初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた(Wikipedia) 

 ≪そのシュメールの神々としては、天神アヌ、太陽神ウトゥ、月神ナンナ、金星イナンナ、大気の神エンリル、大地と水の神エンキなど、天空神を中心に数百の神々があった。 

 これらの神々は、そのまま名前を変え、次代のアッカド民族に引き継がれていく。 

 例えば、太陽神はシャマシュとなり、月神はシン、金星はイシュタルという具合に。 

 これは、ギリシア神話とローマ神話にも見られる現象で、文化の受容・継承に伴うもので、同じような世界観を持っていたことから生じた結果といえる。

 ここでの特徴は、神々が天体の人格化という性格を持っていることで、これは太古の人類が神というものに出会う最も基本のあり方だった。

 何故なら、人類は自然の中に生きていたので、自分たちは勿論、その食物となる動物も植物も、太陽によって育まれていることに気付くわけで、その太陽は人間の力などでは左右できない超越的なものであった。

 同じ理由で月日を教える月も、生物を文字通り生み育む大地も、また様々の自然現象に関係するものや星々も神と見なされていくのは、当然の帰結であった。 

 これらの神々の関係が神話となっていく段階で、世界や人間についての考え方が整理されていった。 

 メソポタミアのシュメール神体系は、太陽神ウトゥ、月神ナンナ、金星イナンナを中心として数百の神々がいたが、この三神だけが原初の中心の神というわけではなく、他に主神もいることは次ぎに見る「ギルガメシュ叙事詩」でも明らかで、そこでは天神アヌが物事を決めている主神であり、また創造の女神アルルがエンキドゥという人間を作っている。  

 さらに、冥界の女王イルカルラも登場する。 

 こうした神々の中で、後代の展開の中で誰かが主神になっていく。  


●天地創造と人間の創造 

 シュメール神話で、最大の特徴として注目されるのが「天地創造と人間の創造」となり、この思想は中東・オリエント最大の特徴と言える。 

 この思想は、一般にはヘブライ神話で知られているが、ヘブライはシュメールよりかなり後代の、しかも中東西部に展開した民族だった。 

 彼等も同じセム族に属し、したがってシュメールとの関連も見られるわけで、有名なノアの方舟の後、その子孫は東に移りシナルの地に平野を得て、バベルの塔を建てたとされている。 

 そのヘブライ神話(聖書)にあるシナルというのが、シュメールの訛った表現であるとされる。

 天地創造の物語は、初めに天と大地が造られ、チグリス、ユーフラテス川が造られ、そして天には天神アヌ、大気の神エンリル、太陽神ウトゥ、大地と水の神エンキがおり、神々は相談して次ぎに何を創ろうかとなり、神々に仕える人間を造ろうとなって、女神アルルを召し出し人間を造らせ、そこに穀物や知恵の神ニバダを送った。  

 人間を神々に仕えるものとして創造したという話は、ヘブライ神話における「アダムとイブ」の物語にそのまま現れ、また人間界に穀物ばかりか知恵が必要であったという、この神話はヘブライ神話での人間が禁断の木の実、つまり知恵の実を食べてしまい、地上に追放された物語にも通じている。 

参考 http://www.ozawa-katsuhiko.com/

メソポタミア神話

 メソポタミアの宇宙観について、具体的な文献は残されていない。  

 学者たちは様々な記述の研究を通して、メソポタミアの宇宙観を少なくとも部分的には正確に復元している。 

  紀元前1200年頃に書かれた創造の叙事詩では、神マルドゥクが母なる神ティアマトを殺し、その半身を使い地上を作り、残りの半分から楽園 (宗教)(šamû)と冥界(irṣitu)を創ったとされている。 

 同時期に書かれた別の文献には、宇宙は回転楕円体で、神々と星の住まう3層の楽園と、その下の3層の地上からなると描写されている。 

 ●神々 

  紀元前二千年紀前半。 

  多神教のメソポタミアの宗教は、様々な神々の存在を許容した。 

  一方で単一神教として、それぞれの信者集団がそれぞれ特定の神を、より優れたものとして信仰した。 

  これらの集団は大抵の場合、都市あるいは都市国家ごとに形成され、それぞれの都市の守護神を信奉した。 

  例えば神エンキは都市エリドゥ、アッシュールはアッシュールまたはアッシリアそのものの、エンリルはニップル、イシュタルはアルビール、マルドゥクはバビロンの守護神と考えられた。 

  メソポタミアにどれだけの神が存在したのかは分かっていないが、タルクヴィストは彼の著書の中で、今日知りうる限りではおよそ2400の神々が存在したとしている。 

  その中の多くは、シュメールの名を持っている。 

  シュメール語では神々はディンギルと呼ばれ、一方アッカド語ではイル(ilu)と呼ばれていた。  この2つのグループはお互いの神に寛容で、お互いにそれぞれの神を取り入れあっていたようである。 

 メソポタミアの神々には、擬人観を見ることができる。 

  人間らしさを持ち、したがって人の姿を持っている。 

  人間と同様に飲食を必要とし、お酒もたしなむ。 

  結果として急性アルコール中毒に悩まされることもあるが、人間よりも高次の存在と捉えられていた。 

  人間よりも力強く、全知なる存在であり、人間には計り知れない存在であり、なりよりも不死である。 

  人との違いという点では、神々の持つメラム(melammu)と呼ばれる後光が、最たるものと言える。 

  メラムは神々を包み込み、見た者に畏怖と尊敬の念を抱かせる。 

  神々の多くは、それぞれ血縁関係にある。 

 これは他の多神教においても、しばしば見られる特徴である。 

  歴史家のボテロは、メソポタミアの人々は神秘主義的に神々を見ていたのではなく、かといって憧れ敬慕する存在というのでもなく、従うべき畏れるべき自分たちの主人として見ていたと述べている。 

  一方でメソポタミア人の名前には、貴賎に関わらず神々の名前を含むものが多く見られる。 

  この習慣は紀元前3000年紀にシュメール人から始まり、後にはアッカド人にも取り入れられた。 

 初期の段階では、パンテオンに序列は存在していなかった。 

  後にメソポタミアの神学者たちは、神々に重要度に応じた序列をつけた。 

  560に及ぶシュメール語で書かれた神々のリストが、ファラ(Fâra)とテル・アル・サラビク(Tell Abû Ṣalābīkh)で見つかっている。 

  紀元前2600年ごろのもの、と見積もられている。 

  その中では5柱の基本的な神々が、特に重要な存在として位置づけられている。 

  これら初期のメソポタミアの中で、特に重視されていたのがエンリルである。 

  シュメール人の宗教観ではエンリルは神々の中の王であり、世界の支配者として扱われていた。  後には、アッカド人にも取り入れられた。

 エンリルに近い役割を持つシュメールの神アン(An)もアッカド人に取り入れられ、アッカド人の間ではアヌとして信仰された。 

  シュメールのエンキはアッカド人にもエンキとして取り入れられたが、後にエア(Éa)と名前を変えている。

  同様に月の神ナンナはアッカドではシンに、太陽の神ウトゥ(Utu)はアッカドではシャマシュに名前を変えている。 

  女神では、シュメールの性と戦いの神イナンナが特に重視された。 

  後に紀元前18世紀ごろ、南メソポタミアでバビロニアの影響力が増すと、ハンムラビはそれまで注目されることの無かったマルドゥクをアヌ、エンリルと並ぶ最高位の神とした。 

  メソポタミアの宗教の中で、今日まで残った重要な神話として「ギルガメシュ叙事詩」が挙げられる。 

  この叙事詩では、英雄ギルガメシュ王と彼の無二の親友、野人エンキドゥの物語、そして神々の思惑が複雑に絡み合う不老不死を求めたギルガメシュの旅が語られている。 

 ●死後の世界 

 古代メソポタミアの人々は、死後の世界はこの世界の下に広がっていると信じていた。 

  アラル(Arallû)と呼ばれたり、ガンゼル(GanzerあるいはIrkallu、偉大な地下の意)と呼ばれたりと不定であるが、社会的地位、生前の行いに関わらず死んだ者は、みなそこへ行くと信じられていた。 

  キリスト教のヘル(地獄)とは違い、メソポタミアの冥界は罰でも報いでもなかった。 

  冥界でも生前と同じ状態ですごしているというわけではなく、死者は非力な幽霊として扱われる。  イシュタルの祖先が冥界へ行く神話では塵が彼らの食べ物、粘土が彼らの栄養であり、暗闇に暮らし、光を見ることはない、と語られる。 

  いくつかの神話、たとえばアダパ(Adapa)の神話などでは、愚かさのためにすべての人間は死を免れない。 

  永遠の命は神々ののみが所有する、と語られている。 

 ●終末論 

  終わりの時に関する、メソポタミアの説話の存在は知られていない。 

  しかしメソポタミアの人々が、なんらかの終末論を持っていたのだろうと推測されてきた。    この推測は、大部分がベロッソスの著述によるものである。 

  彼は、メソポタミア人は世界が12のサー(sar、3600年)を12回繰り返すと信じている、と記述している。 

  つまりメソポタミア人の少なくとも一部は、世界は518,400年で終わりを迎えると信じていたことになる。 

  終末の後に何が起こるかに関しては、ベロッソスは書き残していない。 

 ※Wikipedia引用

天地開闢(其の1)

 『古事記』と『日本書紀』は「記紀」と称されるほどだが、内容的にはかなり違いがある。

 『古事記』の読みは「こじき」ではなく、正確には「ふることぶみ」(「古い事を記した書」の意味)と読む。

『古事記』原文(第一段相当)

『天地(あめつち)が初めて分かれた時に、高天原に成られた神の御名は「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と云う。

次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)である。 

この三柱(みはしら)の神はみな獨神(ひとりがみ)で、お姿を現されることはなかった。』

 ここまでの三柱を「造化三神(ぞうかさんしん)」と称する。

 いわばキリスト教など海外の宗教の「創造神」のイメージに近く、別格中の別格の神様と言える。

『その後、世界(宇宙)ができたてで、水に浮かぶ脂のように、或は海を彷徨う久羅下(くらげ)のように定めなく漂(流)っている葦)の芽のように、息吹き萌え上がるものから成られた神の御名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこちぢのかみ)、 次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)と云う。

この二柱の神もまた獨神で、お姿を現されることはなかった。』

 以上の五柱の神を「別天神(ことあまつかみ)」と称する。

 「別天神」の意味は、この後に次々と誕生してくる神様の中でも、やはり別格の位置づけと見るべきであろう。

日本書紀 第一段 本文

『「古(いにしへ)の未だ天地が離れず、陰と陽とも分かれておらず、廻りならが漂う姿は、あたかも鶏の卵のようであり、暗くてよくわからない中で何らかの芽生えの気配が生まれた。

その輝くものは薄く広がって天となり、重く濁ったものは留まって地となった。

清く明るいものは集まりやすく、重く濁ったものは固まりにくかった。

そこで、まず天ができ、その後に地ができた。

かくして後に「神が、その中で生まれた」と云われている。

かようなことから、我が国では、次のように伝えられている。』

『天地ができ始める時の地が浮かび漂う様子は、例えると魚が水の上に浮いているようなものであった。

その時、天地の中に一つのものが生まれた。

形は萌え出(いづ)る葦の芽のようで、それが神となった。

國常立尊(くにのとこたちのみこと)と申し上げる。

大変貴い方を「尊」と表し、それ以外を「命」と表す。

次に國狹槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)で、すべてで三柱の神である。

この三柱の神は乾道(あめのみち=陽)だけで生まれたものである。

よって、純粋な男神である。』

 このように古事記と日本書紀とでは、最初に誕生した三柱の神が、まったく異なる

 さらに日本書紀の方には、古事記に記される「造化三神」に相当する別格的な神格をイメージさせるような称号の表記がない。

第一段 第一節

  一書には、次のように伝えている。

 天地が初めて分かれ始めた時、あるものが空にあった。

 形状しがたきものであった。

 その中に自然と神が生まれた。

 國常立尊と云う。

 または國底立尊(くにのそこたちのみこと)と云う。

 次に國狹槌尊(くにのさつちのみこと)、または國狹立尊(くにのさたちのみこと)と云う。

 次に豐國主尊(とよくにぬしのみこと)、または豐組野尊(とよくむののみこと)と云う。

 または豐香節野尊(とよかぶののみこと)と云う。

 または浮経野豐買尊(うかぶののとよかふのみこと)と云う。

 または豐國野尊(とよくにののみこと)と云う。

 または豐齧野尊(とよかぶののみこと)と云う。

 または葉木國野尊(はこくにののみこと)と云う。

 または見野尊(みののみこと)と云う。

※AV女優か怪しい三国人のように、別名が幾つもあるのはなんで?

第一段 第二節

 一書には、次のように伝えている。

 古(いにしへ)の国も地も誕生したばかりの頃は、例えれば膏(あぶら)が水に浮かんでいるようなものであった。

 ある時、国の中にものが生まれた。

 その形は、葦の芽が芽生え出たようであった。

 かようにして、生まれた神がおられた。

 可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と云う。

 次に國常立尊。

 次に國狹槌尊。

 葉木國、これを播挙矩爾(はこくに)と云う。

 可美、これを于麻時(うまし)と云う。

第一段 第三節

 一書には、次のように伝えている。

 天と地とが混じり合っていた時に、初めて神人が生まれた。

 可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と云う。

 次に國底立尊。

 彦舅は、比古尼(ひこぢ)と云う。

※いつの間にやら、すっかり可美葦牙彦舅尊が根源神に成っている!

第一段 第四節

 一書には、次のように伝えている。

 天地が初めて分かれた時、始めに共に生まれた神がある。

 國常立尊と云う、次に國狹槌尊と云う。

 また、高天原(たかまのはら)に生まれた神の御名は、天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)と云う。

 次に高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、次に神皇産靈尊(かむみむすひのみこと)

 皇産靈は、これを美武須毘(みむすひ)と云う。

※「また、高天原(たかまのはら)に生まれた神の御名は天御中主尊~」とあるから、最初に登場する「國常立尊と云う、次に國狹槌尊と云う」は高天原ではないところに誕生したということか?

 

第一段 第五節

 一書には、次のように伝えている。

 天地が未だ生まれていない時は、例えれば海の上に浮かぶ雲がどこにも繋がれていないようなものであった。

 その中に、一つのものが生まれた。

 それは、葦の芽が初めて埿(どろ)の中から出てくるようであった。

 それが、人(かみ)となった。

 國常立尊と云う

第一段 第六節

 一書には、次のように伝えている。

 天地が初めて分かれた時、そこにあるものがあった。

 それは、あたかも葦の芽のようなもので、空の中に生まれた。

 これから生まれた神を天常立尊(あまのとこたちのみこと)と云う。

 次に可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と云う。

 また、あるものがあり、それはあたかも浮かんでいる膏(あぶら)のようなもので、空の中に生まれた。

 これから生まれた神を國常立尊と云う。

※今度は天常立尊が最初に登場してきた。

 しかし段落を区切っているところからすると、必ずしもみな同じところに誕生したのではないと解釈できる。

 単純に名前から見ても「天常立尊」、「國常立尊」は対に成るべき神で、天と地に別れていると考えるのが妥当と思うのだが。

ゴジラにブチ壊された「盟主」巨人

 巨人といえば誰もがご存じの通り、プロ野球草創期直後からの半世紀以上もの長きに渡り「球界盟主」として君臨しつづけ、一貫してプロ野球界ではあらゆる点で他の追随を許さぬ、別格的な存在であった。 

  あの「ミスタープロ野球」の名を欲しいままにした長嶋さんや「世界の王」さんといえど、巨人という巨大な組織の前には石持て追われるも、また呼び戻され出戻りを余儀なくされるも事実上は自由自在であったほどに、巨人の権力たるや絶大であったのだ。 

  そしてまた、清原を始め数多の甲子園のスターらをも、ドラフト戦略上から散々に手玉に取ってきたのが「盟主・巨人」である。 

  それだけの絶対的な権力を誇ってきた「大巨人軍」が、こともあろうにON以来の生え抜きのスーパースターにまでようやく成長してきた、ゴジラ松井に見限られてしまうことになろうとは、一時代前までの巨人ファン、いやプロ野球ファンの誰が想像できたことか。 

  さしもの「巨人ブランド」の威光も、時代の波とともに押し寄せてきた、本場の「メジャーブランド」の前には、まったく色褪せてしまったようである。 

  そして、メジャーでも別格的な扱いを受ける「ヤンキース」の中心選手として、移籍早々から堂々の大活躍を見せる松井と、その松井に「見捨てられた」格好の巨人軍。 

  「野球は巨人」の時代は完全に終焉を迎え、かつての「大巨人軍」も他の11球団となんら変わるところのない「one of them」に成り下がってしまったのである。

ベートーヴェン 交響曲第5番(運命)第2楽章

※動画は削除されました。 

 <ついに来たのだ。  

 第2、4、8番などと名前無し交響曲を扱ってきて、意識的に避けてきたわけであるが、いずれは書かねばならなかったこの曲。   

 そう、そこらじゅうで書き尽くされた感がある、この曲なのだ。   

 だから、ありきたりのことを書いても、どうしようもないのである。 

 さて、この曲はベートーヴェンの代名詞のように持ち上げられてはいるが、ベートーヴェンの驚嘆すべき作曲技法の中では、ほんの一例にしかすぎないことは知っておかねばなるまい。   

 ベートーヴェン本来の姿は、交響曲では「英雄」、「合唱」に最もよく現れているのである。    

 もっと言うと、まず非常に豊かなソナタ形式の展開技法である>  

 <第2楽章・・・ 第1楽章で管楽器の使い方が地味だったので、管楽器の活躍ということでは、こちらが目立つことになる。  

 実際、木管楽器主体で数小節を任せられることが多い。   

 またフルート、オーボエ、クラリネットで、なだらかに上下する部分が非常に目立つだろう。    ここは楽器による戯れと言ってもよいだろう。  

 第1楽章には無かった動きである。   

 また、あちこちに軽い書き方もある。   

 しかも、長めの旋律が十分にあるにもかかわらず重厚な印象があるのは、弦楽器が相変わらず密度の濃い使い方をされているからであろう。   

 通常は、明るくなりそうな第2楽章がこうなってしまったのも、最終楽章への布石なのだ> ※http://park10.wakwak.com/~naka3/ 引用  

 第1楽章の「運命の動機」が背後に隠れた分、インパクトが弱く感じる第2楽章だが、悠然と歩んでいくかのような格調高さは素晴らしい。 

ベートーヴェン 交響曲第5番(運命)第1楽章

※動画は削除されました。

 音楽とは、読んで字の如し「音を楽しむ」というのが第一義だが、作曲家にとっては「音学」でもある。

 特に論理的な構築が必要とされる、Classic音楽の作曲家となれば尚更である。

 例えば「運命」の第1楽章は「ソナタ形式」と呼ばれている。

 ソナタ形式とは、簡単に言えば「起承転結」の形式だ。

提示部(起)…第一主題+第二主題

展開部(承)

再現部(転)

終止部(結)

 という4つの部分からなっている(演奏によっては、提示部が2度演奏されることもある)

 今回は、実際に動画を見ながら耳だけではなく、頭で「音学」を理解していく事にしよう。

第一主題

 「ダダダダーン」で始まる、有名なメロディーである。

 が、実は「ダダダダーン」ではなく、先頭に8分休符がある。

 したがって、実際には「ダダダダーン」ではなく「ンタタタターン」になっている。

 このように先頭に休符が入るのと入らないのとで、一体何が違うのか?

 その解が動画にある。

 では、あらためて動画を観てみよう。

 まず、最初に注目だ。

 指揮者(カラヤン)が最初の休符の瞬間に、物凄いエネルギーを集中していることがわかる。

 勿論、これはカラヤンに限らず他の指揮者の演奏を観ても、大体同じような光景が見られるはずだ。

 このように最初に休符を置くことによって、演奏者のエネルギーが一点に凝縮されやすくなるのである。

 裏を返せば、休符がないと最初の音が出た瞬間にエネルギーが拡散してしまい、集中力が持続しないのだとも言える。

 そしてこの第1楽章は、この第一主題がそのまま曲全体のテーマになっており、この第一主題が最後までタイルのように敷き詰められる事で、曲が構築されているのである。

第二主題

 ホルンの繋ぎを挟み、次のテーマへと移行する。

 この繋ぎの部分も第二主題も、第一主題の派生である。

 第一主題が終わると急に明るい雰囲気になり、そこから次のメロディーが始まる。

 が、よく聴いてみると第二主題の裏で、中低弦が第一主題の「ンダダダ」という第一主題の動機を弾いているのが分かるだろうか?

展開部

 再び雰囲気が暗くなり、第一主題が復活する。

 今度は滑らかに、様々なバリエーションに変化していく。

 ベートーヴェンの得意とした「主題の変奏」である。

 そして、さらに激しくなり「ンダダダダーン」という第一主題が再現する。

再現部

 第一主題と同じようなメロディーだが、オーボエのソロが入ったりして、少し趣が変わっている。

 続いて第二主題も再び演奏されるが、途中で転調して提示部の第二主題とは雰囲気が変わっているのが分かるだろうか?

終止部

 第二主題から展開部に移ると見せかけて、そのまま終結部へと雪崩れ込んでいく。

 これまでに出てきた、様々なメロディーを巧妙に使いながら盛り上がっていくが、あくまで第一主題の派生で曲が進行していくポリシーは、最後まで一貫して変わらない。

 最後は第一主題が再び現れ、劇的な終結を迎える。

まとめ

 結論として、この曲は冒頭の「ンタタタターン」という動機によって総てが構成されている、といっても過言ではない。

 第3楽章にも、この第一主題が登場してくるなど、曲の至るところにおいてこの第一主題が響いているのだ。

 第一主題の音の形は単純なもので、色々な曲で使われても決しておかしいものではない。

 それがベートーヴェンの手にかかると、交響曲の1楽章に変化するというわけだ。

 この第1楽章は音楽史上、空前絶後の展開能力の才能を表していることで有名だ。

 「単純な音の形から、1楽章をものにすることができるのはベートーヴェンをおいて他にいない」

 ということは、誰もが言うことである。

 しかしそれが可能であるためには、使われた音の素材が聞き手への印象が強いとともに、じつに単純な音の形であったということが大事なのである。

 誰でも親しめる完結したメロディーを使おうとした場合、ソナタ形式における展開という作業は、そう簡単にはいかない。

 展開に適した主題というのは、短めの印象的な音の並びであって、それだけで主題の一部(あるいは全体)を構成している、重要な部分でなければならない。
※http://park10.wakwak.com/~naka3/ 引用

 もっとも、このような小難しい理屈は抜きにして聴いても

 「音楽って、こんなも凄くて素晴らしいものなのか」

 という、圧倒的なパワーを感じさせる曲であり、あたかも神が創ったとしか思えない一分の隙もない、完璧な傑作なのである。

1日5ℓ (。 ̄Д ̄)d□~~

  ここへきての連日の暑さで、毎日呑む酒量が一気に増えてきた。 

  梅雨寒の7月半ば頃まではのロング缶1本か、精々レギュラー2本程度で済ませていたのが、次第に増量。 

  ロング2本 ⇒ ロング2本+レギュラー ⇒ ロング3本と増加の一途を辿っている。

 そして今日は、遂にロング4本まで来てしまった (。 ̄Д ̄)d□~~ ウメ-  

 「最近、やけに金が足らんぞ」 

  と不思議に感じていたものだったが、ようやく「犯人の正体」が割れたよ ( ̄m ̄*)ブブッ 

  計算してみるとロング3本という事は、これだけで既に900円。 

  さらに、つまみ。 

  これが、案外とバカにならない。 

  呑み方としては、まず風呂上りの一気呑みでまず1本。 

  2本目は、入浴時に茹でておいた枝豆で呑む。 

  そうして、すっかり落ち着いたところでマグロの刺身か、高いときはイカかタコなどの海鮮ネタで、野球などを観戦しながら3本目をじっくり味わう。 

  これだから酒量の増加に比例して、食費の方もドンドンと嵩んでいくわけである。

 「外に呑みに出る事は滅多になく、家で呑んでるくらいだから、たかだかしれてる・・・」 

  と、さして気にもとめていなかったが、ちょっと計算しかけて止めてしまった。 

  そして、またふと気付けば1日の水分摂取量が、これまた半端じゃない。 

  ビール大ビン3本分の約2ℓに加え、このところ日に5杯くらいは飲んでいるアイスコーヒーが約1ℓ。 

  さらに、食事時に飲んでいる麦茶1ℓに加え、水やジュースなどをも含めると、ナント 

  「1日5ℓ」 

  という計算になってしまうのだった。 

  この上、スーパーなどでスイカを買ってきて食べる日などは、どうなってしまうことやら。  

  なるほど、これじゃあ、汗がダラダラと出てくるわけか (;´д`)ゞ アチィー!!

百万遍

 初めて京都に行った時に印象深かったのは、市内を大量に走り回るバスの行先表示によく見かける「百万遍」という文字であった。 

  なにしろ、キャンパスのすぐ目と鼻の先が「百万遍交差点」なのだから、この「百万遍」というヘンテコな名を毎日見ない日はないというものだった。 

  他の土地では見られないユニークな駅名が、いかにも京都らしく堂々と掲げられているのに妙に感心したものである。 

  この「百万遍」の由来を調べてみると「百万遍知恩寺」という、お寺の山号に由来があることがわかった。 

  浄土宗総本山であり、またあの京都三大門といわれる立派な山門と除夜の鐘でも有名な「知恩院」と名前が似ているが、こちらの「知恩寺」の方はいわゆる観光寺社ではないだけに、あまり広くは知られていないと思う。 

  以下は「知恩寺」Webページからの引用だ。             

  ≪通称は百万遍、正式には百万遍知恩寺で浄土宗の四本山のひとつです。 

  交差点は百万遍、そして正式な地名に百万遍は存在しないけれど、皆がこの辺りを百万遍と呼んでいます。 

  百万遍知恩寺は、賀茂社の神宮寺としての起源を持ちます。 

  そんな由来もあって、浄土宗としては珍しく境内に賀茂明神の分社が鎮座していたりします。    その後、相国寺の北側に在って丈六の釈迦像を安置していたところから今出川釈迦堂、賀茂の釈迦堂と云われていました≫ 

  ≪百万遍という名は、元弘元年(1331)に疫病が大流行した折りに八世円空上人が、後醍醐天皇の勅命により御所の紫宸殿に7日間籠もって念仏を百万遍唱えたところ、疫病は治まった事から後醍醐天皇より、百万遍と云う寺号を賜ったところからだと伝わります。 

 その証、門前には百万遍念仏根本道場の石碑が、名残を留めています≫ 

モラトリアムpart1

 とにもかくにも、新しい住居は決まった。 

  (オレのような優れた人材を、世間が放っておくはずはない・・・) 

  社会人デビュー前から、直ぐに引く手数多とタカを括っていたが、大企業ならともかくマイナーな小企業から、まさかのNGが続いた。 

  (そんなバカな・・・もしやオレが優秀すぎて、小さい組織からは僻みや嫉妬で敬遠されてしまっているのだろーか・・・) 

  などと、世間知らずをいい事に臆面もなくこう信じていたものの、一方では紛れもない現実として世間の厳しさを肌で知る事となり、まったく思いもしなかった多難な前途を感じさせる船出となってしまった。 

  後になって振り返って考えれば、この当時の就職活動が上手く行かなかった原因はハッキリしており、なんと言っても学生気分のまったく抜けきっていなかった、当時の非常識さに負う所が大きかった。 

  学生時代に、集団での就職活動という経験を経て来なかった事も大きなツケとなって、基本的な社会のルールがわかっていない。 

  そもそも、会社訪問の時すらスーツを着ていったためしがなかったのは、日本の社会風土にあっては、能力以前に論外だった。 

  より正確には、着ていったためしがなかったというよりも、そもそもスーツを一着も持っていなかった。 

  それ以前に、面接にスーツを着て行こうという心構えすら、サラサラなかった。  

  (なーに、服装ではなく人間性で勝負だ・・・服装で人間性を否定するような会社なんぞは、こっちからお断りじゃ)  

  などと独り善がりの美学に酔っていたはいいが、実際に着ていくのはGパンにセーターという普段着そのままだったし、髪もボサボサの長髪のままでは第一印象からしてNGもやむなしだったろう。 

  さらには、当然のことながら社会人としてのマナーもまったくゼロである。 

  社会人マナーといえば、まずは名刺交換だ。 

  といっても就職活動中だから、まだ名刺は持たずにもっぱら貰うだけの立場だったが、この社会人マナーの基本中の基本ともいえる「名刺交換」に関しては、カネガネ非常な疑問を抱いていた。

  名刺交換くらいは自分で経験がなくても、世間のあちこちで日常的に目にするものだから、単純に見よう見真似で何とかなりそうなものだが、悪いことに  

  (たかだか名刺のようなものを、大の大人がなんであんなに腰を折ってまで、仰々しく押し戴く必要があるのか?) 

  という固定観念が頭にこびりついていたから、始末が悪い。  

  (いかに大企業の取締役であろうが、麗々しい肩書きがずらずらと並んでいようが、名刺それ自体に高潔な人格が宿っているわけでもないし、言霊のような魂が篭められているわけでも、勿論ない。  所詮は「たかが小さな紙きれ」に過ぎないではないか! 

  たかがあんな紙切れを、大の大人が腰を屈して仰々しく押し戴いている図は、実に滑稽以外の何物でもない!) 

  このような考えは脇に追いやって、ともかく見よう見真似で世間体だけを取り繕っておくのが処世術というものだろうが、こうした考えを持ってしまうともうダメで、どうしても  

「バカバカしい (`Д´)y-~~ちっ」 

  というような態度が、露わとなってしまうのであった。 

  そうして時に無作法を咎めるような視線に出くわすと、余計にバカバカしくなってしまうという悪循環である。 

  これはあくまでも一例だが、一事が万事こんな調子だったから、日本のような形式主義のシステマチックな社会においては、すでに能力以前にスタートラインにすら立たせてもらえないというのが、実情であったろう (* ̄m ̄)ブッ

入園

 入園早々、大勢の仲間に囲まれて水を得た魚のように跳ね廻る、にゃべっち。 

  いたずらものの本領を発揮し、保母さんの手を焼かせていた。 

  陽気なにゃべ少年は、毎日のように園で流行歌を歌っていたらしい。 

  悪戯で押入れの中に入れられても、聞こえて来るのは泣き声ではなく、歌声ばかりだったそう

 「お仕置きの効果が、まったくないよ・・・」 

 と、保母さんを嘆かせていた。 

  にゃべっち家は商売のため、母が園に迎えに来る時間は不規則になったが、迎えが遅くなって最後まで取り残されても、元気に歌っていたとか。 

  「他の子は淋しがって泣いたりするのに、にゃべちゃんはしっかりしてるわねー」 

  と、ヘンな風に感心されていた。

アイドルにゃべっち

 商売だったにゃべっち家は、母屋とは別に当時この都市には数少ない3階建てのビルで、1階が店舗、2階と3階はテナントが入っていた。 

  大手保険会社など、入れ替わりで常時3社ほどが入っていたが、幼き日のにゃべっちは事務員さんらのアイドルだった (*^。^*) 

  「にゃべちゃん、女の子みたいでカワイイー」 

  とチヤホヤされていた記憶が、微かにある。 

  よく遊びに来ていたマリコ姉さんにも、随分とかわいがられていた記憶あり。 

  マリコ姉さんといえば数年前、ミーちゃんが子供を産んだ際に 

  「ヨソの子見てよー。 

  ウチの子みたいに、カワイくないでしょ?」   

  と親バカ丸出しで、来るたびに自慢していた。 

  確かに可愛い子供だったが、にゃべっち幼時の写真を持っていたマリコ姉さんは 

  「この前、にゃべの幼児期の写真を改めて観たけど、にゃべの方が断然カワイかったよねー」 

 と、母に語っていたらしい。 

  幼少のにゃべっちは、このように恵まれた環境の中、皆から愛され元気にすくすくと育っていった。 

自我の目覚め

 このころの記憶はまったく残ってないが、いつも 

 「女の子に間違われるような、可愛らしい子供だった」  

  との両親&姉の証言多数あり。 

  この頃から、すでに   

  「一人で勝手に遊んでいた」 

  という声も訊かれた ( ´艸`)ムププ